先生がすきです、と心の中でつぶやいた。口に出して言うことは許されないし、本人の目の前でなんてありえない。同じグループの男子がピンセットでつまんだマグネシウムが激しい光をともなって燃えつきた。私はそれに自分を投影して眺めていた。明かせない思いはいつかこのマグネシウムみたいに酸化して、真っ白に燃えつきて何もなくなってしまうのだ。マグネシウムの燃えカスをピンセットでつつくと、いとも簡単にくずれた。元々やわらかい素材だから、燃えたらこんなにもろくなる。こんなふうに私のやわい思いが崩れ去ってしまったら、私は生きていられるんだろうか。

 先生の結婚を知ったのは、つい先日のことだ。放課後、職員室に提出物を持っていくとき、ドアの傍で話していた他の先生たちの話が耳に飛び込んできた。盗み聞きはいけない、とはわかっていながら、耳をそばだてて聴いてしまった。
「マツバ先生、ご結婚なさるんですって」
 提出物を握りしめたまま、その場に立ち尽くしてしまった。行き来する生徒や先生は不審そうに視線を送ってくるが、そんなことにかまっている余裕はなかった。先生は地元では誰もが知る名家の出身だった。結婚の相手も同じような名家の出身らしく、親同士が決めた結婚らしい。家のために結婚を承諾するしかなかったのだろう、気の毒に。先生たちの会話はマツバ先生の境遇に同情する言葉で終わった。おめでたい話題のはずなのに、とても祝福されている雰囲気ではないことは私にもわかった。
 今の会話は本当なんだろうか? 突然降りかかった衝撃に、指先から血の気が引いて冷えていくのがわかる。少しでも早くそこから離れたかった。だけど、先生たちの会話が頭の中でずっと繰り返されて、私はその場に縛り付けられたように動けなかった。
”マツバ先生、ご結婚なさるんですって”
”親同士が決めた結婚らしいよ”
 きっと何かの間違いだと、誰かに言ってほしかった。そんな”誰か”を求めて、私はようやく我に返ると一気に階段を駆け上って教室に帰った。ピシャン、と立て付けの悪い戸を強引に閉めると、窓際にゴールドが1人立っていた。彼は私の顔を見るなり、眉間にしわを寄せた。
「お前、なんて顔してんだよ」
「マツバ先生、結婚するんだって、」
「…あー、そういや女子の間ではちょっと前から結構噂流れててみんな軽くショック受けてたな」
「私だって、先生が選んだ人ならこんなに悲しくない…! でも、のぞまない 結婚だって」
「…もしそうだとしても、先生は決めたことを変えることはないし、お前には何もできない」
 幼馴染でさえ、否定してくれなかった。その場しのぎでも、「そんなはずない」ってやさしい嘘がほしかった。私の目からこらえ切れなかったものが雫となってあふれ出した、それを黙って彼は見ていた。そしてもっと残酷な事実を私に差し出した。
「これはあの人の問題なんだ、には関係ないんだってことくらい自分がよくわかってるだろ? だから今まで思いを隠してきたんじゃねぇのか」
 私はこの後ずっと、ただ、泣いていた。ゴールドはなぐさめの言葉をくれるかわりに、力強い腕と、あたたかい胸を貸してくれた。それが唯一の救いになっていたのかも知れない、もしあのとき1人で泣いていたら私はあのマグネシウムのように、ボロボロになって燃え尽きて消えていただろうから。

 私があの話を聞いたあと、マツバ先生に特に目立った変化は現れていなかった。ただ、日に日に先生の机の上が片付いていって、机の横には荷物が入った段ボールが積まれていった。先生はたとえ結婚せずとも、いずれ家を継ぐことが決まっていたので、どのみち近いうちに退職する予定だったのだと、噂話で聞いた。先生が教職に就いていたのは親に無理をいって、一定期間ならという約束だったらしい。
 そこまでして、彼が教壇に立とうとした理由はわからないが、もし先生が夢をあきらめていたら私は先生に会うことはなかったし、恋をすることもなかった。先生を知らないまま、他の人を好きになっていたらもっと幸せだったのかもしれない。ただ、偶然にも生徒として巡り合って、彼の人生のほんの一部分にでも私が存在するのなら、終わってしまった恋だけど一生大切にしたいと思う。
 先生に初めて話しかけられたときの台詞を、私は今でも覚えている。授業数もそんなに多くないのに、私の名前を覚えてくれていたのが何より嬉しかったときだ。
君は綺麗な字を書くんだね」
 何気ないことが、たとえばなんの意図もないかもしれない台詞とか、席の横を通り過ぎる時の流れる空気とか、ただ当たり前の日常が、何もかも大事だった。

初稿 070121、改稿 200708